タブレットやオンライン教材が広く普及しました。学校でも塾でもデジタル化が一気に進みました。移動時間がいらない授業も増えました。日本のどこにいても、教え方の上手な講師から学ぶことができます。時間も場所も選ばずに学べる時代になったのは間違いありません。これだけでも、大きなメリットです。
かつては手作業で時間がかかっていた事務作業も、デジタル化で一瞬に終わるようになりました。オンライン通話を使えば顔を見ながら学べます。勉強以外の相談にのってくれる大人とつながることもできます。メンターのような存在を持てるのは、デジタル時代ならではだと感じます。
一方で、デジタル学習には影があります。タブレットに触れる時間が長くなると依存が生まれます。情報が多すぎて、何が正しいのか判断できなくなることもあります。画面の刺激に慣れすぎてしまい、集中力が続かない子どもも増えています。学習そのものが「画面を前に座る作業」になってしまうと、学ぶ意味を感じにくくなります。
では、デジタル学習はこのままで良いのでしょうか。
社会全体を見ると、もっと大きな変化が起きています。反復作業や単純作業の多くをデジタルが得意としていた時代は、ほんの少し前までの話です。今はAIがその領域を一気に引き受け始めました。ホワイトカラーの仕事も、AIの得意分野になりつつあります。
反対に、ブルーカラーの仕事のほうが意外と長く残る可能性すらあります。
この流れは止まりません。にもかかわらず、公教育ではようやくプログラミングや英語が導入されたところです。時代の変化の速さを考えると、かなり遅いと言わざるを得ません。
今後は、プログラミングができれば就職に有利という時代ではなくなるでしょう。英会話も同じです。同時通訳の精度がこれからも上がれば、「自分で話せること」に価値がある範囲は狭まっていきます。
デジタル技術を“操作すること”自体の価値は、どんどん下がる可能性があります。
デジタルと人間の決定的な違いは何か。
それは「肉体」だと思います。
人間は体を持っています。物理法則に従って生きています。光を感じ、音を感じ、匂いや重さ、温度を感じます。自分の体の状態や相手のちょっとした表情の変化も読み取ります。言葉にならないニュアンスや、その人の気持ちが宿る場の空気も感じ取ります。
AIには、これがありません。
今後どれだけ進化しても、データとして処理するだけです。
だからこそ、人間が身につけるべき学びは、プログラミングの操作力ではなく、未来の社会を想像し、自分の生き方を選び取る力かもしれません。この先の社会でデジタルが担う役割を考えた上で、自分は何を大切にして生きたいのか。
これを子どもたちが考えられるようにすることが、本来のデジタル教育ではないでしょうか。
少し極端に聞こえるかもしれませんが、「デジタル技術を学ぶこと=デジタル学習」と考えるのは、もはや時代錯誤かもしれません。
数年後、あるいは数十年後には、働くことが義務ではなくなる可能性まであります。貨幣経済の終わりを語る人も増えてきました。仮にその未来が現実になるとすれば、デジタルスキルの習得よりも、自分がどう生きたいかを選び取る力のほうがよほど重要になるでしょう。
では、何を学ぶべきなのでしょう。
その答えのひとつは、「身体を伴う学び」だと思います。
体を動かし、手で触れ、声を出し、人と関わること。
五感を使って経験し、失敗し、成功し、また挑戦すること。
これはデジタルには代替できません。未来のAIがどれほど進化しても、人間の身体性を持つことはありません。
ICT教育の光と影を見たとき、必要なのはデジタルを否定することではありません。デジタルが得意なことは任せてしまえばいいのです。
その上で、人間にしかできないことを大切にしながら学ぶ。
このバランスこそが、これから求められる「デジタル学習」の姿ではないでしょうか。
今の時代、そしてこれからの社会で、デジタル学習とは何を学ぶことなのか。
この問いを大人も子どもも一緒に考え、早い段階で軌道修正することが必要だと感じます。
