図工・美術にAIを取り入れると、子どもたちの創造性はどう変わるのか

コラム

図工や美術の授業にAIが入ってくる未来が、急に現実味を帯びてきました。AIツールを使えば、絵が苦手な子でも、自分の発想を形にできます。文字情報の入力さえできれば、まるで巨匠が描いたような名画を生成することもできます。反対に、ヘタウマな絵だって作れます。3Dデータの生成も進化しているので、3Dプリンターを使えば立体物を作ることもできるはずです。これらは「AIアート」として、これからひとつのジャンルになるでしょう。

では、図工や美術教育にAIを取り入れたらどうなるのでしょうか。

私は、図工や美術は「発想」と「技巧」の掛け合わせだと思っています。どちらかだけでは、大きな感動につながる作品は生まれにくいものです。発想は、好奇心や広い知識、さまざまな組み合わせから生まれます。技巧は、経験や積み上げた作業時間、道具と向き合う中から磨かれていきます。どちらも簡単ではありません。しかし、だからこそ価値があります。

AI生成は、このうちの「技巧」をほぼ代行します。入力した言葉をもとに、作品として整えてくれます。つまり、子どもは発想を言語化たけできれば作品が成立します。一見すると便利で、子どもの可能性を広げるように見えます。もちろん、これは大きなメリットです。しかし同時に、作品がどれも「整いすぎる」危険性もあります。上手い作品や美しい作品は簡単にできます。でも、誰かの心を揺さぶるほどの強い独創性がそこに宿るのかというと、少し疑問が残ります。

描けない子どもの描いた絵は、正直に言えば上手ではありません。色も形も歪んでいます。それでも、その子にしか描けない世界があります。線の震えや、思いきった色選び、不器用さの中にある大胆さ。それらは唯一無二です。図工や美術の授業が持つ最大の価値は、この「個性」を育てるところにあると思います。上手か下手かではなく、他の誰とも違うことに価値があります。それは子どもたちの生き方にもつながります。人生もまた、他の人と違っていいのです。

AIアートを否定するつもりはありません。むしろ、創作の中にAIを「選択肢のひとつ」として持っておくことは大切です。しかし、AI礼賛やAI依存に偏ると、子どもたちの成長に必要な大切な要素を失ってしまいます。

人間には、AIにない「偶然性」があります。意図しない線や失敗から新しい表現が生まれることがあります。AIは、人間が入力した情報から動くため、そこを超える偶然を生み出すことはほとんどできません。おかしな言い方ですが、「失敗」にこそ価値があるのです。

子どもが工作をしている場面を見ていると、そんな人間らしい偶然があちこちで起きています。のりがはみ出たり、紙がうまく切れなかったり、クレヨンが思わぬ方向に滑ったり。でも、そのズレや不器用さが、作品に温度や味わいを生んでいます。そして何より、体を使って作る行為そのものが楽しそうです。

AIを図工や美術に取り入れることは、技巧を補い、表現の幅を広げるうえで大きな力になります。ただその一方で、個性や偶然性、肉体性の価値が薄れてしまう危険もあります。このバランスをきちんと理解して子どもに触れさせることが大切だと思います。描けない子への福音ではなく、ハサミや色鉛筆と同じ「道具のひとつ」だと捉えるほうが健全です。

AIは便利ですが、万能ではありません。人間の体から生まれる偶然や、不器用さの中に潜む個性は、これからの時代でも変わらず価値を持ち続けるはずです。図工や美術は、そんな人間らしさを守り、育てる場であってほしいと思います。