AIが学習指導を担う未来は、もう想像の世界ではありません。AIとロボティクスを組み合わせれば、AI教師の実現は十分に可能です。しかもそのAI教師は、人間の教師よりも多くの場面で優れているでしょう。
知識量は圧倒的です。どれだけ質問されても怒りません。生徒の特性や好みを正確に把握し、最適な学習プランを一人ひとりに提供できます。時にはわざと間違えて、生徒の思考を引き出すこともできるでしょう。思春期の悩みにも寄り添い、最適な回答を返すことができるはずです。体力は底なしで、激務にも耐えられます。いわゆるモンスターペアレントへの対応も、心理モデルを用いた冷静な説明で乗り切るでしょう。
では、そんな未来に人間の教師は必要なのでしょうか。
単に「教える」という役割だけを見るなら、AI教師で十分です。むしろAIの方が向いているかもしれません。しかし、AIに教えられて育つ子どもたちの姿を想像すると、どうしても人間の教師の存在が必要だと感じます。それは、子どもたちには親以外の“人間のモデルケース”が必要だからです。人は人を見て育ちます。人生の歩き方はひとつではないことを、身近な大人の背中から学びます。
人間の教師には、有限の人生を生きる者としての実感があります。
失敗し、迷い、選び取り、また歩き出す。その積み重ねが、生身の言葉からにじみ出ます。こればかりはAIには語れません。
ちょうど戦争体験者が、その場の匂いや空気まで伝えるように、生身の教師は人生の“温度”を語ることができます。
AI教師はどうしても「道具」です。どれだけ感情表現が上手になっても、受け手の子どもからするとデータで動く仕組みのひとつです。だから叱られたとき、人間の教師とは違った種類の怖さを感じるかもしれません。人間教師は怒っても、どこかに「愛情による歯止め」があります。極端なことには絶対にならないという信頼があります。これは本能的な安心感と言えるかもしれません。
一方、AIはどれだけ優秀でも、”本能としての安全”を保証しません。ハサミや包丁が使い方を間違えると凶器になるように。意図せずに加減を誤る可能性があります。
では、人間教師はAI時代にどのような価値を持つのでしょうか。
おそらくその本質は、「語り部」であることだと思います。
知識を教えるのではなく、人生の経験から生まれる“知恵”を語ること。
どのように生きたいのか。何を大切にして生きるべきか。人生には選択肢があり、自由に歩めること。
こうしたことを体験とともに語れるのは、人間の教師です。
そして、人間教師に求められるのは知識の量ではありません。教え方の上手さだけでもありません。
大切なのは、どれだけ多様な体験をし、そこから何を学び、自分の言葉として子どもたちに伝えられるかどうかです。
そして子どもたちの未来を本気で考え、次の世代に何を託したいのか。その想いが自然と行動に表れているかどうか。
こうした“人間愛”こそが、AIには絶対に持てない価値です。おそらく人間は細胞レベルでこの“人間愛”が存在するのだと思います。
同時に、人間の教師にも危険人物はいます。だからこそ、教員免許の基準を見直しても良いのかもしれません。試験の点数や学歴よりも、その人がどんな人生を歩んできたか。何を乗り越え、何を学び、人類の未来をどう考えているのか。そうした本質的な部分に焦点を当てるべきだと思います。
AI時代には、効率や正確さだけでは生きていけないでしょう。むしろ、時に非効率で、時に無駄にも思える行動や生き方の中に、人間だけの豊かさがあります。
人間教師に求められるのは、その豊かさを自らの人生で体現し、子どもたちに伝えていくことです。
限りある人生をどう生きるか。
その答えを、体験とともに次世代に渡していくこと。
それが、AI時代の人間教師の役割なのだと思います。
